毎年、年末近くなると発売される森博嗣さんの書き下ろしエッセイシリーズ、今回のタイトルは「つぶさにミルフィーユ」となっており、「つぶさに」という言葉に久しぶりに触れたような気もするし、なんて思いつつエッセイの内容も気になり、手に取るや否や、早々に読み始めました。

多くの方は、本を読むことで、なんらかの気づきが得られたと喜ぶ。しかし、この場合、「気づいたこと」つまり知識に価値があるのではない。

「気づいた」というその体感だけが、各自の身につく。それが蓄積されたものが教養だろう。同じく、「知ること」でも、「こと」に意味があるのではなく、「知る」行為が重要なのだ、と思う。

(「つぶさにミルフィーユ」本文より抜粋)

「つぶさにミルフィーユ」を読み始めて、すぐにこの文に触れ、森博嗣さんによる読者の気づきが気づきのみならず、行為としての意味として納得しつつ、森博嗣さんの考え方、捉え方により興味が湧きました。

今回のエッセイが、いつもと違った執筆の仕方をされていることにも、本文で触れられていて、どういった執筆ペースなのかを改めて、知ることができました。

幸不幸どちらも、結局は本人が探して見つけているという点では同じだ。歩いているのは、誰でも一本道。そこに落ちているものも大差はない。拾い上げる目と手が違っているだけである。

(「つぶさにミルフィーユ」本文より抜粋)

森博嗣さんのエッセイを読んでいると、書き留めておきたくなる言葉に幾つも出会います。幸か不幸か、というのは、本当に捉え方に個人差があって、面白いなぁと思います。

もっともっとと欲しがる気持ちが強くなるほど、目先の幸せを掴み損ねたりもするかもしれない、と思いました。幸も不幸も、本人の見方次第でしか判断がつかないだけに、隣の芝生が~なんてことにもなるのだな、と気づかせてもくれました。

思い出を残しておきたい、と言う人がいるが、思い出とはそういう外部の情報ではない。情報は死んでいる、と書いたとおり、外部記録した瞬間に、思い出は死んでしまう。いつまでも生きている思い出を持っていたかったら、記録しないことだ。

(「つぶさにミルフィーユ」本文より抜粋)

外部記録した途端に思い出が死んでしまう、という発想がこれまでになく、しかしながら森博嗣さんの考え方に反論どころか同意してしまうくらいに、ハッとするような思いに駆られたのが、この文脈でした。

どこかへ出かける度に、通りすがった場所で、スマホやカメラで撮影して思い出に残すことばかりしてきましたが、思い返してみると、記憶に残っていることの大半は、写真などに残した素晴らしい景色、美味しかった料理だとかよりも、誰かとのやりとりだったりします。

なにかにつけて、記録に残すということよりも、記憶として刻んでいきたいものだと思い直すような気持ちになりました。

まだ他にも書き連ねておきたいような森博嗣さんの考え方、捉え方に出会えた「つぶさにミルフィーユ」は、森博嗣さんの今年の出来事も綴られていて、少々心配になりつつも、最初から最後まで読み応えたっぷりで楽しめました。