「「やさしさ」過剰社会 人を傷つけてはいけないのか」榎本博明著を読んだ。
“やさしさ”にも、いろんな形がある。
そして、やさしい人を演じる人、やさしさを求める人、やさしさを与える側と受け取る側もあるだろう。

また、やさしさを拒絶する人もいるし、やさしさを巡っては人々の様々な考え方、行動が存在している。
本書を読むことで、“やさしさ”について、今一度考えてみたくなった。
そもそも人の内面など、なかなかわかるものではない。
相手の気持ちなどお互いになかなか読めないし、この先どんな反応をするかなど予想できない。
「「やさしさ」過剰社会 人を傷つけてはいけないのか」 本文より抜粋
本文にて、著者が述べている通り、相手の内面までを理解することなんて到底できない。
自分が発した言葉や行動で、相手がどんな感情を抱くのかすら本当のところは、汲み取れない。

それと同時に、相手に自分のことをすべて理解してもらえないことも、忘れないようにしたい。
ほんとうのやさしさには厳しさが伴う。
そのことを今一度嚙みしめてみる必要があるだろう。
「「やさしさ」過剰社会 人を傷つけてはいけないのか」 本文より抜粋
“ほんとうのやさしさ”は、少し時間を経てみないと、気づけないこともあるし、いつまでもわからないままになってしまうこともあるだろう。
それに気づけるかは、自分が相手に言う場合は、相手の受け取り方次第だし、昨今ではハラスメントとして扱われることもあるから、難しい部分が増えた。

おそらくは、普段からの相手との距離感であったり、やりとりを繰り返すことから成される信頼関係が伴わなければ、相手から迷惑がられてしまうだけ。
やさしさの定義をはっきりさせることよりも、やさしさについて考えることの方が大切なのではないだろうか。
「「やさしさ」過剰社会 人を傷つけてはいけないのか」 本文より抜粋
やさしさのあり方は、自分のさじ加減次第であり、むやみやたらにすべきことではないだろう。
お互いに相手を尊重し合っている関係ではない相手へのやさしさは、相手から都合の良い人扱いされるだけ惨めになる。
「せっかく~してあげたのに。」という言葉が頭に浮かんできたり、実際に口にしてしまうようでは、押しつけているだけのものになってしまう。

相手に見返りを求めて、自分に負荷がかかるようになってしまうのならば、本当に必要なやさしさではない可能性が高い。
自分の為になるやさしさであり、周囲への不満が溜まらない程度の最低限のものを見出せたら良いな、と思う。