ジェーン・スーさんによる、66篇のエッセイがまとめられた「これでもいいのだ」を読んだ。
本書では、思い描いていたような大人になっていなくても、これでもいいのだ、と思える話が4章にわたって綴られている。女友達のこと、中年女になって思うこと、世の中で見かけること、大人になっても傷つくことがある、といった感じで語られている。
ジェーン・スーさんと私は、世代がやや異なる。けれども、勝手にシンパシーを感じて読み進めた。
たとえば、「小ライスは私です」という話では、以下のようなことが述べられている。
私は心から、偏見のない社会を望む。
しかし、すべてをいちいち冷静に訂正する気力が、常に満ちているとは限らない。そんな自信はまるでない。
かといって、その程度のことを気に病むのは馬鹿馬鹿しいと、したり顔で流すのも違うような気がする。
「これでもいいのだ」本文より抜粋
これは、ジェーン・スーさんが、友人と訪れた飲食店での1コマでの話だ。
私も似たような経験があったので、このモヤモヤする気持ちには心当たりがある。どう対応するのがスマートなのか、は私も未だに結論に至っていない。
また、「ゴッドマザーを頼まれて」という話では、下記のようなことが綴られていた。
誰かが不当に不利益を被るわけでもない限り、選択肢は多く用意されていた方がいいに決まってる。幸せの形は、多様なのだから。
「これでもいいのだ」本文より抜粋
これは、ジェーン・スーさんの友人が暮らす海外のとある国では、婚姻関係の有無に限らず、子育てなどに不便がない暮らしができることを見聞きしたことから述べられたもの。
なにかの本で、既婚者、独身者、同性婚などに限らず、選択肢が多く用意されている社会が良い、というような内容を見かけたばかりなので、ジェーン・スーさんの言葉にも納得だ。
このほかにも、ジェーン・スーさんの手帳探しの話で、以下のようなことがあった。
「理想の○○」を語るとき、
私は相手のことなんて、なにひとつ考えていない。
あなたはどうですか?
「これでもいいのだ」本文より抜粋
この問いかけを目にして、私も「理想の○○」を語るとき、自分の利益になることばかりを思いつく例に挙げていくばかりで、相手のことなど微塵も考えていないことばかりだと気づいた。
「(自分の)理想の○○」なのだから仕方ない、と開き直ろうとも思わないが、自分の理想の形を追い求めていくと、自分さえ良ければ、ということが相手の有無に関わらず無意識のうちに頭の中のどこかにあるのかもしれない、などと考えてみた。
これら以外にも、以前Twitterにてジェーン・スーさんのツイートで見かけた、40代以降の女性向けのファッション誌のことなどにも繋がっているのかもしれない話などがあった。
このほかに、本書の中で記述されていたドラッグストアでのヘアオイルの大人買いについては、ちょっと真似してみたくなった。
加齢をポジティブに捉えることで楽しめることもあるし、今足りていないものについても的確に述べることができる人の周りに人々が集まってくることが、ジェーン・スーさんのエッセイを読む度に伝わってくるような気がしている。