Twitterのタイムラインに流れてくるフォロワーのツイートなどで、なんとなく見知っていた”僕のマリ”というアカウント。なんとなくそのアカウントが気になり始め、エッセイを出版されることを知り、試し読みをしたら続きを読みたくなったのが、この「常識のない喫茶店」だ。
試し読みの時点では、私は「常識のない喫茶店」に記述されている喫茶店での出来事は架空のもので、小説だと思っていたけれど、よくよく読んで確認してみたら著者である僕のマリさんが働いていた喫茶店でのことが綴られていた。
私は飲食店で働いたことはないけれど、新卒で働いた会社では接客をしていたから心身ともにギリギリで働くのは、想像するに難しいことではなかった。トンデモ客も、良いお客様というものも、姿形を変えてどこにでもいる。けれども、お店にとっても良いお客様にとっても不愉快な客を出禁にするような店主、店員たちがいるお店というのは、出会ったことがない。そんなお店があるのならば、ドキドキしつつも、いつか行ってみたいとすら思う。
他人を思いやるということは難しい。何を持って「やさしい」とするか、一言では説明ができない。やさしさのかたちは人それぞれで、思い描く像も違うだろう。だからこそ、善意が届かなかったり、悪意はないのに勘違いされて溝が生まれてしまうことがある。
「常識のない喫茶店」本文より抜粋
「やさしさ」というのは、引用部分に記述されているように難しく、ややこしい。やさしさは誰かに向けて、言葉にしてもしなくても、行動に表れなくても、自分の中に留めておけるものばかりではない。
本書では、僕のマリさんが店主や同僚との日々を綴る中にこそ、やさしさが溢れている様子が垣間見れたように思う。互いの距離感、相手を尊重するということは、押し付けがましくないやさしさが前提条件として必要だろう。
常識はないが、良識はあったと思う。いいお客さんにはきちんとサービスをするし、そのお客さんたちが居心地よくいられるように、マナーの悪い人は追い出してきた。
「常識のない喫茶店」本文より抜粋
「心地いい空間」を守るためには、戦うことも必要だ。
この引用部分には、チェーン店では決して味わえない、個人店だからこその空間づくりの積み重ねが語られている。心地いい空間であり続ける理由というのが、本書で語られているエピソードを読むごとに納得するし、爽快な気持ちにもなる。
店員も客も人として対等であり、店員が不愉快な気持ちを抑えてまで笑顔になる必要もないし、仕事の合間に雑談しても良い、お茶を飲んでお菓子を食べるのも自由、良いお客様には相応の接客をする。そういうことが当たり前の店が増えたら、接客業あるいは飲食業といった職業の人たちに対する”お客様対応”のイメージや働き方がガラリと変わるかもしれない、とも思う。
また、本書ではコロナ禍での日々についても語られていて、自分と誰かとの関わりなどが心の支えになったりすることも読めて良かった。
「常識のない喫茶店」を読んでみたら、ひょんなことから喫茶店で働き始めた僕のマリさんのトンデモ客とのエピソードからユニークな同僚とのことまでおもしろおかしく楽しめた。腹の立つ出来事も、素敵な出会いややりとりも、誰かとの関わりを諦めなかったからこそ得られた経験だろうから、少し羨ましくもなった。